【喜茂別に生きた人々:下山嘉吉さん】白花豆が丘に咲き誇ったのは、幻影だったのか
国道276号が喜茂別町の双葉市街地に差し掛かると、夏ともなれば2キロ近い沿道の植栽枡に色とりどりの花が咲きそろう。車中からの視線がゆっくりと左右に漂い、アクセルを踏む足もいつしか緩んでいる。地域住民と町内の中高生が20年来ボランティアで植え続けてきた「双葉フラワーストリート」は、住民主体のまちづくり事業として喜茂別町における住民参加のモデル的存在であり続けてきた。しかし、そんな市街地の一角、旧双葉小学校の校門から少し離れて端正な石碑がひっそりと佇んでいるのを眼に留める人は少ない。「下山嘉吉翁の白花豆植栽発祥記念碑」である。
「明治44年4月下山嘉吉(45歳)、現山梨県甲府市落合村から入植、大正13 年苦闘の末白花豆の純化を完成す」と揮毫され、平成9年10月に建立されたものだが、名前が掘り込まれた4名の建立者はいずれも身内の人たちで、今はこの地に住んでいない。建立者の一人下山嘉三さんは嘉吉翁の次男で、白花豆の純化に人生をかけた嘉吉翁の半生記を『白花豆縁起』に著した人である。
この碑がこの場所に建っているのは、どのような理由からであろうか。嘉吉一家が明治44年に入植した「ニ号」と言われる地は、旧双葉小学校奥の小高い丘の向こうにある。現在「花丘」と言われる場所だが、これが白花豆の純化に成功した下山嘉吉翁を讃えて付けられた字名であることは、察しの良い読者であれば気が付かれると思う。旧字名はソーケシュオマベツであるが、昭和13年に改称された。今日では、花丘に至る道の入り口に農家が数戸点在しているだけである。そんな花丘の奥地ではなく、多くの人の目に触れて欲しいといわんばかりにこの地に建てられたのには、建立者下山嘉三さんのある強い思いがあってのことだろう。そのことは、この拙文の末尾で推察してみたい。それにしても、もともとの地名が「ニ号」というのも珍しい気がする。正確に言うと「山梨ニ号」である。明治44年、この地に集団移住した山梨団体の入植地は、このように「イ号」から「チ号」まで組として表記された。白花豆の物語は、この山梨団体の集団移住から始まることになる。
山梨団体移住のきっかけは、明治43年、ふるさとの山梨県甲府市笛吹川で発生した大水害である。地元で再起が困難な農家を救済するため、山梨県庁が様々な支援措置を組み込んだ北海道移住対策を実施。253戸がソーケシュオマベツに入ったが、その中に下山嘉吉一家の姿もあった。支援措置といっても、実際に現地に入るとその過酷さは予想をはるかに超え、入植1年目にして嘉吉翁は大怪我をして左手の機能を失った。この時期千名に近い移住は喜茂別にとっても大きな出来事で、当時真狩村の一部であったこの地域の発展に少なからず寄与し、早々に分村独立運動の火の手が上がるほどだった。山梨団体入植のインパクトについて、双葉地域の歴史に詳しい松田薫さんに話を聞いたことがある。「多くの人が一時期に来たから、そりゃ影響は大きかったさ。でも、我々の先祖みたいにその前から入ってコツコツ畑を広げてきた個人入植者から見ると、山梨団体にあてがわれた土地は条件が悪すぎたよ。いい所がもう残っていなかったからね。だから、2,3年もしないで大半が帰って行ったんだ。今でも残っている人って、多くはいないよ。でもその中で、下山嘉吉さんは特別さ。すごい人だったからね。」
下山嘉三さんの記録『白花豆縁起』を読むと、嘉吉翁は大怪我の翌年にあたる明治45年、ある人から入手した雑穀のハナマメに真っ白い白花豆が混じっているのを見つける。その場面は感動的だ。“それを翁は掌の窪みに乗せ、燦然と輝く宝玉を発見したように見つめ、首を少し傾げ、しばし黙然凝視しているではないか。”農作物を愛する情熱に芸術家のそれと違うものを見出すのは難しい、そんな格言(?)を放ちたくなるような場面が描写されている。その後の13年間にわたる白花豆純化に邁進する文字通り“死闘”(実際、嘉吉翁は6年目に瀕死の重傷をおっている)のプロローグが、息子(嘉三)の眼を通してリアルに描かれている。嘉吉翁は翌春から、白い豆だけを蒔き収穫できたものから白い豆だけを選び出し、さらにその白い豆だけを蒔いて収穫すると言う方法を繰り返した。旧喜茂別町史は、この挑戦は一種の“純系淘汰”を試みたもので、メンデルの法則によれば白い豆であってもその因子には赤い豆の因子が含まれるので、必ず赤い豆が出現する。今思うと無謀に等しい方法であった、と記しているが、嘉吉翁はついに13年目の大正13年、白豆の純化に成功するのである。とは言え、その途中経過の実際は家族を巻き込んだ過酷な夜なべ仕事の13年間であり、経済的にも決して安定したものではなかった。白花豆は、当時高い値が付いた福豆のさらに2倍の値段で仲買商人に買われたが、狭い農地と限られた労働力しかない下山家の生産量ではたかが知れたものだったろう。長男嘉一と次男嘉三の事実上の出稼ぎによってようやく純化までの取組みが維持されたものの、成就の歓喜に浸る余裕がないまま、嘉吉の怪我療養のため13年間の苦闘の地を引き払うことになったのである。築き上げた全てのノウハウは下山家だけの孤高の取組みによるものであったが、嘉吉翁は平賀文一さんという壮年若夫婦にその全てを譲り後を託した。
この地における白花豆の物語は、現実にはここで終わりを告げる。後を託された平賀文一さんは白花豆を地元の大きな産業に興すことができぬまま、白花豆の真っ白に咲く花畑の景観はソーケシュオマベツからすっかり消えて久しい。代わりに残ったのが「花丘」という字名の誕生だけであったことは、冒頭に述べたとおりである。
しかし、物語の幕を引くに当たっては、冒頭で約束した疑問への答を述べなければならないだろう。「下山嘉吉翁の白花豆植栽発祥記念碑」が何故国道276号沿いに建てられたか。その答えは、やはり『白花豆縁起』に秘されている。家族ともども東京に戻った下山嘉吉翁は余生をのんびり過ごしていたが、甲府で空襲に遭い、昭和20年12月29日に世を去った。そして終戦後、嘉三さんの目を驚かすようなことがおきた。戦後の巷で、白花豆があふれんばかりに流通するのである。その謎をあれこれと考えた嘉三さんは、ひとつの推論を得た。嘉吉翁から白花豆を買った仲買商人が、密かにどこかで大規模に栽培を進め、その果実を得たのではないか、と。嘉三さんは、その結果は止むを得ずとも、その陰に父嘉吉翁の壮絶な人生があったことはぜひとも世に知ってほしい、そう思ったに違いないと私は思う。それが「発祥記念碑」ではないのかと。
「これをなあー、これをなあー、真っ白いものにしたらあー、みんな喜ぶだろうなあー。」嘉吉翁のつぶやくような、ほとばしるような想いを『白花豆縁起』から感じつつ、私は、夕暮れが近づいた花丘の道にもう一度車を走らせてみた。道端の奥で、誰のものだったともわからない廃屋が夕映えの窓を白く光らせ、あたかも朽ち果てんとしている巨大な獣のような崇高さをあたりに放っていた。ここが、白花豆の花丘なのだ。
※『バイウェイ後志』通巻4号(2008.12.24)掲載(梅田滋)の原文より
※参考文献:『白花豆縁起』下山嘉三著(双葉開基93・開校90周年記念事業協賛会)
『北海道のなかの山梨』武井時紀著
『喜茂別町史』新・旧版




