2010年04月21日

春の火災予防運動

 4月20日から春の火災予防運動が始まりました。
オフトークを担当している関係から、2010年度の春の火災予防運動の啓発テープのアナウンスを担当させていただきました。
(本当に、私でよかったのか・・・。消防関係者の方は今頃、後悔しているかも・・・。)
羊蹄山ろくの7つの町村で、春の火災予防期間中に広報車で流すそうです。
早速、昨日、喜茂別町内でも流れていました。
お聞きになられた方もいらっしゃるかでしょうか?

私自身も少し聞きましたが、外から不意打ちで自分の声が聞こえてくると、びっくりします。
そして、かなり恥ずかしいです。が、火災予防のためですから、我慢です。

みなさま、火気の取扱いには気をつけて、火災がおこらないようにしましょう。

(上野)

2010年04月09日

最近よく聞かれます・・・。

久々に、ブログ更新です。(かなり放置していたので、ちょっと書きづらいですが。)

最近、「オフトークの人変わったの?」と聞かれることがが多いので、ちょっとご報告です。

放送などに詳しい方にオフトーク放送を録音しているところを見ていただいて、色々アドバイスをしていただきました。
録音機材の調整から、発声・録音方法、話すスピードなどなど、自己流でやっていたものをしっかり直していただいたのです。
教えていただいたこと、全部がしっかりとできているわけではないのですが・・・かなり、変わったいうと評判をいただいていました。(「ぜんぜん変わってないよ」という方も、いらっしゃるようですが・・・。さらに、役場で新しいマイクスタンドを購入していただいたので、4月から、マイクも変えました。聞いている方、どうでしょう?変わりましたか?)

その結果、町民の方に会うと、いろいろ聞かれるようになりました。
「オフトークの人、変わったの?」から「いつもの人、どこか旅行でも行ったの?最近の放送代理の人?」(行きたいです、旅行!!)、「あんた、辞めちゃったのかと思った」などなど。
それまでと変わりすぎて、別人疑惑が!?変わってません!辞めてません!!

さらに、驚いたのが、「ファンです!!」といってくれる方がちらほらと!!ありがとうございます。
中には、「毎回再放送のお知らせも聴いてる。1つのお知らせ、2回は聞いている」という方も。感謝です。
こんな素人の声を「いい声だ」といってくださる方。本当にありがとうございます。

今までは、「毎日聞いてるよ。でも、この前風邪ひいてたでしょ?もう、治ったみたいだけど。」といわれることはあったのですが・・・。毎日聞いてくださっている方(本当に感謝です)には、すぐにばれるようです。(なるべく、風邪、引かないように頑張ります)
こんなに、よい反応をいただいて、本人、びっくりしてます。(プラス ちょっとビビッてます)

「前よりずっと聞きやすくなった」という方、「前の方もよかった。今も、いいけどね。」という方・・・。いろいろご意見をいただいています。

全体的に、よい反応が多いので、よい方向に変わっているようなので、やっている本人もちょっとホッとしてます。
至らない点ばかりだと思うので、まだまだですが・・・。
今年度はIP告知端末の導入も始まりますので、また、別人疑惑が出るかも?ですね。

これからも、精進していきますので、よろしくお願いします。

(上野)

2009年03月18日

追い込み中です。

現在、3月25日(水)から行われる、広報きもべつ写真展「2500人の素顔’09」の準備作業真っ只中です。
プリンターは、ここ数日フル稼働。写真を印刷する音が、耳から離れません。

印刷している本人が、何枚印刷したのか分からないくらい、たくさんの写真を展示する予定です。
ぜひ、農村環境改善センターまで、見に来てください。

同時進行で、喜茂別高校のハンドベル部のCD配布の受付も行っています。
受付する人間が、ちょっといっぱいいっぱいな感じになっていますが(・・・すみません)、興味のある方は、町民まちづくり編集工房(0136-33-3370)まで。

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(上野)

2009年01月19日

放課後児童クラブのソーセージ作り

1月16日(金) 農村環境改善センターで放課後児童クラブのメンバーによるソーセージ作りが行われました。
みんなで、肉の塊をミンチして、色々なものを混ぜ、ケーシングにつめて燻製した後に、ボイルして食べる、という工程でソーセージを作ります。
残念ながら、仕事の都合で最初のミンチの作業しか見られませんでしたが、みんなで協力して作っていました。

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おいしいソーセージができた模様。
1月19日の始業式の前に、冬休みの最後の思い出ができたのではないでしょうか。

(上野)

2009年01月04日

【喜茂別に生きた人々:下山嘉吉さん】白花豆が丘に咲き誇ったのは、幻影だったのか

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 国道276号が喜茂別町の双葉市街地に差し掛かると、夏ともなれば2キロ近い沿道の植栽枡に色とりどりの花が咲きそろう。車中からの視線がゆっくりと左右に漂い、アクセルを踏む足もいつしか緩んでいる。地域住民と町内の中高生が20年来ボランティアで植え続けてきた「双葉フラワーストリート」は、住民主体のまちづくり事業として喜茂別町における住民参加のモデル的存在であり続けてきた。しかし、そんな市街地の一角、旧双葉小学校の校門から少し離れて端正な石碑がひっそりと佇んでいるのを眼に留める人は少ない。「下山嘉吉翁の白花豆植栽発祥記念碑」である。

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 「明治44年4月下山嘉吉(45歳)、現山梨県甲府市落合村から入植、大正13 年苦闘の末白花豆の純化を完成す」と揮毫され、平成9年10月に建立されたものだが、名前が掘り込まれた4名の建立者はいずれも身内の人たちで、今はこの地に住んでいない。建立者の一人下山嘉三さんは嘉吉翁の次男で、白花豆の純化に人生をかけた嘉吉翁の半生記を『白花豆縁起』に著した人である。

 この碑がこの場所に建っているのは、どのような理由からであろうか。嘉吉一家が明治44年に入植した「ニ号」と言われる地は、旧双葉小学校奥の小高い丘の向こうにある。現在「花丘」と言われる場所だが、これが白花豆の純化に成功した下山嘉吉翁を讃えて付けられた字名であることは、察しの良い読者であれば気が付かれると思う。旧字名はソーケシュオマベツであるが、昭和13年に改称された。今日では、花丘に至る道の入り口に農家が数戸点在しているだけである。そんな花丘の奥地ではなく、多くの人の目に触れて欲しいといわんばかりにこの地に建てられたのには、建立者下山嘉三さんのある強い思いがあってのことだろう。そのことは、この拙文の末尾で推察してみたい。それにしても、もともとの地名が「ニ号」というのも珍しい気がする。正確に言うと「山梨ニ号」である。明治44年、この地に集団移住した山梨団体の入植地は、このように「イ号」から「チ号」まで組として表記された。白花豆の物語は、この山梨団体の集団移住から始まることになる。

 山梨団体移住のきっかけは、明治43年、ふるさとの山梨県甲府市笛吹川で発生した大水害である。地元で再起が困難な農家を救済するため、山梨県庁が様々な支援措置を組み込んだ北海道移住対策を実施。253戸がソーケシュオマベツに入ったが、その中に下山嘉吉一家の姿もあった。支援措置といっても、実際に現地に入るとその過酷さは予想をはるかに超え、入植1年目にして嘉吉翁は大怪我をして左手の機能を失った。この時期千名に近い移住は喜茂別にとっても大きな出来事で、当時真狩村の一部であったこの地域の発展に少なからず寄与し、早々に分村独立運動の火の手が上がるほどだった。山梨団体入植のインパクトについて、双葉地域の歴史に詳しい松田薫さんに話を聞いたことがある。「多くの人が一時期に来たから、そりゃ影響は大きかったさ。でも、我々の先祖みたいにその前から入ってコツコツ畑を広げてきた個人入植者から見ると、山梨団体にあてがわれた土地は条件が悪すぎたよ。いい所がもう残っていなかったからね。だから、2,3年もしないで大半が帰って行ったんだ。今でも残っている人って、多くはいないよ。でもその中で、下山嘉吉さんは特別さ。すごい人だったからね。」

 下山嘉三さんの記録『白花豆縁起』を読むと、嘉吉翁は大怪我の翌年にあたる明治45年、ある人から入手した雑穀のハナマメに真っ白い白花豆が混じっているのを見つける。その場面は感動的だ。“それを翁は掌の窪みに乗せ、燦然と輝く宝玉を発見したように見つめ、首を少し傾げ、しばし黙然凝視しているではないか。”農作物を愛する情熱に芸術家のそれと違うものを見出すのは難しい、そんな格言(?)を放ちたくなるような場面が描写されている。その後の13年間にわたる白花豆純化に邁進する文字通り“死闘”(実際、嘉吉翁は6年目に瀕死の重傷をおっている)のプロローグが、息子(嘉三)の眼を通してリアルに描かれている。嘉吉翁は翌春から、白い豆だけを蒔き収穫できたものから白い豆だけを選び出し、さらにその白い豆だけを蒔いて収穫すると言う方法を繰り返した。旧喜茂別町史は、この挑戦は一種の“純系淘汰”を試みたもので、メンデルの法則によれば白い豆であってもその因子には赤い豆の因子が含まれるので、必ず赤い豆が出現する。今思うと無謀に等しい方法であった、と記しているが、嘉吉翁はついに13年目の大正13年、白豆の純化に成功するのである。とは言え、その途中経過の実際は家族を巻き込んだ過酷な夜なべ仕事の13年間であり、経済的にも決して安定したものではなかった。白花豆は、当時高い値が付いた福豆のさらに2倍の値段で仲買商人に買われたが、狭い農地と限られた労働力しかない下山家の生産量ではたかが知れたものだったろう。長男嘉一と次男嘉三の事実上の出稼ぎによってようやく純化までの取組みが維持されたものの、成就の歓喜に浸る余裕がないまま、嘉吉の怪我療養のため13年間の苦闘の地を引き払うことになったのである。築き上げた全てのノウハウは下山家だけの孤高の取組みによるものであったが、嘉吉翁は平賀文一さんという壮年若夫婦にその全てを譲り後を託した。

 この地における白花豆の物語は、現実にはここで終わりを告げる。後を託された平賀文一さんは白花豆を地元の大きな産業に興すことができぬまま、白花豆の真っ白に咲く花畑の景観はソーケシュオマベツからすっかり消えて久しい。代わりに残ったのが「花丘」という字名の誕生だけであったことは、冒頭に述べたとおりである。

 しかし、物語の幕を引くに当たっては、冒頭で約束した疑問への答を述べなければならないだろう。「下山嘉吉翁の白花豆植栽発祥記念碑」が何故国道276号沿いに建てられたか。その答えは、やはり『白花豆縁起』に秘されている。家族ともども東京に戻った下山嘉吉翁は余生をのんびり過ごしていたが、甲府で空襲に遭い、昭和20年12月29日に世を去った。そして終戦後、嘉三さんの目を驚かすようなことがおきた。戦後の巷で、白花豆があふれんばかりに流通するのである。その謎をあれこれと考えた嘉三さんは、ひとつの推論を得た。嘉吉翁から白花豆を買った仲買商人が、密かにどこかで大規模に栽培を進め、その果実を得たのではないか、と。嘉三さんは、その結果は止むを得ずとも、その陰に父嘉吉翁の壮絶な人生があったことはぜひとも世に知ってほしい、そう思ったに違いないと私は思う。それが「発祥記念碑」ではないのかと。

 「これをなあー、これをなあー、真っ白いものにしたらあー、みんな喜ぶだろうなあー。」嘉吉翁のつぶやくような、ほとばしるような想いを『白花豆縁起』から感じつつ、私は、夕暮れが近づいた花丘の道にもう一度車を走らせてみた。道端の奥で、誰のものだったともわからない廃屋が夕映えの窓を白く光らせ、あたかも朽ち果てんとしている巨大な獣のような崇高さをあたりに放っていた。ここが、白花豆の花丘なのだ。

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※『バイウェイ後志』通巻4号(2008.12.24)掲載(梅田滋)の原文より
※参考文献:『白花豆縁起』下山嘉三著(双葉開基93・開校90周年記念事業協賛会)
        『北海道のなかの山梨』武井時紀著
        『喜茂別町史』新・旧版


2008年12月03日

なんだかきれいだったので。

喜茂別中学校のグラウンドです。(農村環境改善センターの前の道路から撮影。)
なんだか、きれいだったので写してみました。
下の方は、昨日の除雪でぼこぼこですが・・・。

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本当は、もっと真っ白だったのですが、カメラを取りに行ったり、つるつる路面で転びそうになったりと、ばたばたしている間に、こんな感じに・・・。

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次回は、もう少し早くカメラを出せるようにがんばってみます。

(上野)

2008年11月17日

役場内にようていポテトサミット35の“じゃがいも”を展示!

洞爺湖サミットに併せて留寿都村で栽培されていた36種類のジャガイモがJAようていから提供されました。
「男爵薯」、「インカのめざめ」、「キタアカリ」などお馴染みのものから、ポテトチップスの原料になる「らんらんチップ」、ポテトサラダ用の「ひかる」などたくさんのじゃがいもが皆さんを出迎えています。
一度に見れるこの機会に、お早めにご覧になってください。


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2008年11月06日

喜茂別町での取材

10月31日(金)に広報12月号の取材が喜茂別町商工会の2階で行われました。
10月29日(水)に留寿都村で行われた、喜茂別小学校5年生との共同の取材で、今回は喜茂別町の方に、サミット前に留寿都村と喜茂別町が共同で植えた”花”についてお話を伺いました。
(今回も私は、写真撮影担当で参加しました。)

今回の取材は、喜茂別町商工会の越後事務局長、笠谷経営指導員、商工会女性部の荻野さん、喜茂別町役場の井原さん、きもべつWAOの山本さんが対応してくださいました。

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2回目の取材体験で慣れたためか、知っている人ばかりの取材だったためか、子どもたちに緊張は見られません。さらに、留寿都村での取材が生かされ、留寿都村の方に聞いた話をもとに考えた質問もたくさん出てきました。

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前回の留寿都村では、どちらかというと取材体験がメインになっていましたが、今回は取材する人を取材するということを意識して頑張ったようで、留寿都村の取材では、見られなかった光景が見られました。そのシーンがこちら。

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取材する人を取材している小学生を撮影しようとしているカメラを撮影する小学生。
なにやら複雑な状況です。

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喜茂別小学校の5年生が頑張って質問した、今回の取材は、広報12月号で紹介することになっていますので、お楽しみに。

(上野)

2008年10月30日

留寿都村での取材

10月29日(水)に広報12月号の取材のため、留寿都村へ。
留寿都村と共同企画となる特集に関する内容で、今回はサミット前に留寿都村と喜茂別町が共同で植えた”花”についてお話を伺うことに。

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この日は、喜茂別小学校の5年生8名と担任の吉崎先生が社会科の授業の一環として、一緒に行きました。目的は、取材の体験と編集工房が取材している場面の取材です。
(私は、写真の撮影を担当していたので、取材の取材の撮影という不思議なポジションにいました。)

留寿都村からは、留寿都村役場の佐藤課長、留寿都村商工会の斉藤経営指導員、留寿都村観光協会の大野さんの3名が対応してくださいました。

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喜茂別小学校の5年生も、事前に考えた質問だけではなく、話を聞いてみて、新たに出てきた質問をしたり、写真を撮ったりと、しっかり取材をしていました。

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11月31日(金)には、喜茂別町の商工会で同じく”花”についての取材が行われます。
喜茂別小学校の5年生が頑張って質問した、今回の取材は、広報12月号、ホームページの町のできごとでご紹介することになっていますので、お楽しみに。

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(上野)

2008年07月14日

仕事場の風景

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サミットが近づいて、何やら落ち着かなくなったのですが、あちこちで草狩りが行われました。冬あんなに活躍する除雪車ですが、夏は草刈りもするとは知りませんでした。農家の方が農機具に色々な装置を付けて作業するように。二つの歯車が廻って草を狩って行きました。丁寧なコントロールが効く装置でした。


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背中にしっかり除雪車のプレートが付いていました。


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この日は雲が降りて羊蹄山が隠れたままでしたが、去り行く除雪車は100人力を地で行く感じの頼もしさでした。


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尻別川にはイワツバメが舞っていて、みごとな飛行を見せてくれますが、一羽だけ
写真に収まってくれました。


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尻別川の上流には尻別岳が鎮座し、アイヌ語でピンネシリ=男の山と呼ばれていたのが
うなずける容姿です。